「サルが人間に進化して、一番最初に話した
言葉は何でしょう・・・?
うー あー・・・きっとそんな感じでしょうね・・・・」
これはソケリッサ!作品中の台詞である。
さて人間の最初はどんなものだったか想像する・・・
通説ではアフリカで生まれ、その後ユーラシアへと渡ったという
地図も無い時代に全く情報も無い場所へ歩き出す・・
それにしても他の動物のように牙も無く、角も無く、身を守る
硬い甲羅も無く、速い足も、木登りも容易ではない人間は
いったいどのような生活をしていたのだろうか・・
とにかく何も情報の無い世界が広がっている
始めてみる猛獣がいきなり現れることもあっただろうし
自然災害、カミナリ、地震なぞ腰を抜かしたかもしれない
その状況の暮らしは、想像以上に恐怖に包まれていたと思ってしまう
人間も増えてくれば当然安心と共に、不安も増える
どこまで信頼関係は存在したのだろうか
又、死を受け入れることができたのだろうか・・
とにかく人間は我が身を守るために武器を作り(それも必死で)、
コミュニケーションにおいては危機に直面した獣のように雄叫びをあげ
強烈なエネルギーで身振り手振り行い、その景色はすさまじい
狂気なモノであったのではないだろうか・・
仮に秩序もなく、又冬場に狩が出来なければ
死を恐れ生きるために平気で食べ物を奪ったり
傷つけあう事もあるだろう・・
穴の開けられた頭蓋骨が何体も見つかり
ネアンデルタール人の脳が取り出され食べられていたのでは
ないかという説がある。もちろん呪術的意味合いとも取れるが
その印象は理性でしっかり抑制されている
現代の人間と同じとは考えにくい
ロバート・アンドレイの「狩をするサル」という本を古本屋で見つけた。
(1976年に発行現在は廃刊、ちなみにこの時代、なんと
きっぱり地球の温暖化はありえないと作者が断言している手記がある
・・今ほど注目されてなかったのがよくわかる)
さてこの本の中で、衝撃的な文章がある。
アメリカの人類学者、コリン・ターンブルがウガンダ北東の
山岳地帯に住むイーク族の研究を行った手記があるのだが
その内容は飢餓状態において人間に宿る狂気が記録されている
イーク族は網を使い、仲間と協力し獲物を追い込んで狩をする
狩猟民であった。しかし、独立したウガンダ政府から狩猟場を
動物保護地区へと指定され 狩を禁じられてしまう。
政府は彼らに作物の種を給付し、穀物の栽培方法を
指導したりしたが 、やすく農作業に飛びつくことも出来ず
わずかな努力も旱魃(かんばつ)
に見舞われ彼らは人と人、夫と妻、親と子で争いあうようになる
そこでのイーク族の語りがある
「・・子供は年老いた両親同様、役に立たぬ厄介者だ。
自分で自分の面倒が見れない者はすべて他人に負担をかける
有害な存在である・・」
彼らは家族の絆などばかげているとみなす。
イーク族の母親が水場のそばに赤ん坊を置いたとき
ヒョウがその子をさらってしまった。
そこで母親は子を養うこともなくなり厄介払いが出来たと喜ぶ
さらにこの付近に満腹になって寝ているヒョウをしとめれば
獲物にありつける絶好の機会だと・・
そこで男達は眠っているヒョウを見つけ、殺して調理して食べた。
半分消化された子も一緒に。
又ある母親の赤ん坊が這いながら、焚き火に近づいた。
周りの男達は息を呑んで見守っていた。赤ん坊が焼けどをおい
悲鳴をあげると男達はどっと笑った。
母親は男達を楽しませたことに満足し
その子を手もとにひきよせた 。
飢餓は恐ろしい。
その後村から数マイル離れた場所に政府の救援施設が設けられ
食料の援助が受けられるようになる
村から食料を取りに行った者は、帰り道でその食料をくりかえし
吐くまで食べ、仲間に分ける量を少しでも減らそうとした
・・・・・
もちろんこれが特別な状況における人間性の総てと結論付けることは
避けるべきではあるが、ターンブルは、自己中心的妄想だけが
真の人間特有の性質ではないだろうかと考える
この内容に付け加えたいのは、イーク族は、単に飢餓に陥り
温厚さを失っただけではなく狩猟生活を奪われた伝統の消滅
そしてプライドを失ったショックの影響は計り知れない
それらは彼らの変貌の要因と関係無いとはいえないだろう
とにかく人間にはいとも簡単に落ちていく弱さがある
そして、狂気を持ち合わせている
我々の今があるのは武器を手に入れたからである。
先人が生きるために「思考」「言葉」「道具」を創り出した
それらは同時に硬い甲羅になり、逃げ足になり
我々の身を守るものとしても活用できる優れた性質を持つ。
人間が生き抜くために創り出した「思考」「言葉」「道具」
の持つ力は当然驚異的である
そこにはもはや手放せない身体の機能としてゆるぎない存在感を持つ
ちなみに個人携帯やパソコンを他人に覗かれたくないのは
おそらく思考を覗かれることであり、自分自身と直結しているからである。
道具は武器、身を守る身体の一部化としておそらくまだまだ進化するだろう
又、このブログも自分の思考を正当化して、
言葉で身を守っていると言えばそうなるのである・・
・・・・
たまたまであるが、踊りを踊るとき、言葉を使わず
道具も持たず、身体感覚で動く。
踊りとは、人が生き抜くために創り出した武器を総て放棄したとき
そこに何が生まれるのか・・ということなのだろうか?
いや。説明するとどうもかっこうよく
聞こえるようにするのがいやだ
あれこれ言わず、単に人前でわが身をさらけ、痴態をみせる、弱弱しいもの
と言いたい。
今回はこの辺で
2010年2月10日水曜日
2010年1月29日金曜日
喜ぶカラダ
新年明けましておめでとうございます。
年明けから連続していた舞台もひと段落
やっと年明けのようで、ほっと一息・・
ソケリッサの話から
今年は年始早々練習があり、終了後に
メンバーと初詣に行き一年の幸せを願い、皆で手を合わせてきました。
現在のメンバーは5名。平均年齢60才手前くらいでしょうか、
神前にて無骨な手を合わす横顔を盗み見て
皆何を願っているのかとつい想像します。
おみくじも引きたかったのもあり、
さい銭は皆で200円を投入し、神前にて手を合わせました。
取引的思考が働き、金額が少ないと、ご利益もそれなりと
つい思ってしまいますが・・
ひいきは無い(はず)。
1月16日浦和大、1月24日岐阜県多治見で踊ってきましたが
すっかりたくましく人前にて表現をする、おじさん達を見ると
その懸命な姿は輝き、生命エネルギーを感じます
物質的な平等は無くとも、心が豊かになるということは
誰も皆平等に分け与えられている自然的要素なのでしょう
さておみくじを引くと3名が大吉、後は吉や中吉といった良い結果でしたが
そこに一喜一憂することも無く、おじさん達は平然としていました。
質感の無いものには左右されないのか、散々神頼みをして
上手くいかなかったからなのかよくわかりませんが
簡単には揺れないようです。
ちなみに無感動では無く、人前で拍手をもらった時は喜びを
感じているのが 強く伝わり、子供達の前にいると
皆目じりが下がります・・
やはり感覚にリアルに響くものには本当に素直な反応です。
返せばソケリッサの最初の公演が2007年、今までのその約3年の間で
初期メンバーのおじさん達とはもう10回以上も共に人前にて踊り
緊張、感動そして喜び等の感情を共感してきました。
良くあるハリウッド映画で、苦難を共にした主人公とヒロインが
恋に落ちるようなシーンがありますが、苦難を共にしたおじさん達との
絆は、始めに比べ数倍強いものに変わりました。
・・言うまでも無く恋に落ちようとは思いませんが。
人間、お互いが共感し、感情を共有することの
重要性をひしひしと感じてしまいます。
おじさん達は帰って家庭があるわけでもなく,友達付き合いが
頻繁に無い場合 、ほとんど他人と話す機会ない日常のおじさんもいます。
日常に 大きな変化が無ければ、同じ話を繰り返してしまう気持ちも
良く解り、毎回初めてのように聞く事は必要であると思います。
まあ、あまり繰り返しだと「では踊りましょうか」
と流れを摩り替えてしまいますが。
ソケリッサの今年の目標は、夏の東京、大阪での舞台公演、
秋の屋外パフォーマンスを軸に、学校や施設、企業訪問での講演、
ワークショップ等、行いたいと思っています。
あくまでも予定なのですが、流れを楽しみにしたいと思います。
それにしても毎年ながら、たくさんの人と知り合い
自分や活動に対し、本当に良くしてくれる事に感謝します。
引き続き皆さんのご協力の下そして共に進んで行く事が、
自分達の強い励みになります。
本年もいっそうの御愛顧よろしくお願いします。
今回はひとまずこの辺で・・
年明けから連続していた舞台もひと段落
やっと年明けのようで、ほっと一息・・
ソケリッサの話から
今年は年始早々練習があり、終了後に
メンバーと初詣に行き一年の幸せを願い、皆で手を合わせてきました。
現在のメンバーは5名。平均年齢60才手前くらいでしょうか、
神前にて無骨な手を合わす横顔を盗み見て
皆何を願っているのかとつい想像します。
おみくじも引きたかったのもあり、
さい銭は皆で200円を投入し、神前にて手を合わせました。
取引的思考が働き、金額が少ないと、ご利益もそれなりと
つい思ってしまいますが・・
ひいきは無い(はず)。
1月16日浦和大、1月24日岐阜県多治見で踊ってきましたが
すっかりたくましく人前にて表現をする、おじさん達を見ると
その懸命な姿は輝き、生命エネルギーを感じます
物質的な平等は無くとも、心が豊かになるということは
誰も皆平等に分け与えられている自然的要素なのでしょう
さておみくじを引くと3名が大吉、後は吉や中吉といった良い結果でしたが
そこに一喜一憂することも無く、おじさん達は平然としていました。
質感の無いものには左右されないのか、散々神頼みをして
上手くいかなかったからなのかよくわかりませんが
簡単には揺れないようです。
ちなみに無感動では無く、人前で拍手をもらった時は喜びを
感じているのが 強く伝わり、子供達の前にいると
皆目じりが下がります・・
やはり感覚にリアルに響くものには本当に素直な反応です。
返せばソケリッサの最初の公演が2007年、今までのその約3年の間で
初期メンバーのおじさん達とはもう10回以上も共に人前にて踊り
緊張、感動そして喜び等の感情を共感してきました。
良くあるハリウッド映画で、苦難を共にした主人公とヒロインが
恋に落ちるようなシーンがありますが、苦難を共にしたおじさん達との
絆は、始めに比べ数倍強いものに変わりました。
・・言うまでも無く恋に落ちようとは思いませんが。
人間、お互いが共感し、感情を共有することの
重要性をひしひしと感じてしまいます。
おじさん達は帰って家庭があるわけでもなく,友達付き合いが
頻繁に無い場合 、ほとんど他人と話す機会ない日常のおじさんもいます。
日常に 大きな変化が無ければ、同じ話を繰り返してしまう気持ちも
良く解り、毎回初めてのように聞く事は必要であると思います。
まあ、あまり繰り返しだと「では踊りましょうか」
と流れを摩り替えてしまいますが。
ソケリッサの今年の目標は、夏の東京、大阪での舞台公演、
秋の屋外パフォーマンスを軸に、学校や施設、企業訪問での講演、
ワークショップ等、行いたいと思っています。
あくまでも予定なのですが、流れを楽しみにしたいと思います。
それにしても毎年ながら、たくさんの人と知り合い
自分や活動に対し、本当に良くしてくれる事に感謝します。
引き続き皆さんのご協力の下そして共に進んで行く事が、
自分達の強い励みになります。
本年もいっそうの御愛顧よろしくお願いします。
今回はひとまずこの辺で・・
2009年11月27日金曜日
憂鬱なカラダ
先日、首に痛みが出て、病院で検査をすることにした
どうやら疲労で筋肉が張っているとの事
普段は怪我も無く、今の所至って健康だが
身体は確実に劣化する・・
年齢に伴い身体はますますいたわらないといけないなあ
と思いながらレントゲン写真にうつる自分の骸骨を眺める
身体は神秘に包まれている。
・・私達の身体は目に見える「肉体部分」と、
見えない思考や意思、感情などの「精神部分」で構成されている。
そこで人間の行動には、
肉体への知覚(感覚)の刺激が精神部分に働きかけるか
逆に精神部分から肉体に働きかけ行動を起こすといった
精神と肉体間のやりとりがせっせと日々行われるのである。
つまりは、見える部分と見えない部分が噛み合って初めて、
身体にとって自然な状態ということになる。
踊りなら、心地よければ心地よく踊り、心地悪ければ心地悪く踊るのである
日常であっても、つらいのに楽しいふりをする事はきつい
単純に我が内に正直に生きることである。
しかしながら、明らかに精神と肉体が噛み合っていない振る舞いは
いたるところ見受けられる
表向きがよければ中身は問題にしない社会の傾向はまずい・・
とうぜん不自然は身体に無理があり、壊す原因でもある。
以前、CM制作会社に頼まれ、企業へのプレゼン映像用に
振付のアイデアを求められた時の話。
新商品の強い守秘義務のため、食品ということ意外、商品の名前も
何も詳細を教えてもらえず振付を頼まれたことがある。
それは大変であった。売り出す商品があって動きのイメージができる。
商品を知らずに形をつくることは不自然で、なにより芸術性にかける。
(もちろん、たまたま先方にそうなる事情があった事で
やるからにはもちろん尽力に従ったことは付け加える。)
・・・・・
人前で肉体をさらし踊りを踊ることは、
精神のさらしである。
魂の叫びである。
目に見える部分だけなんて、おさまる事は自身にとってありえない。
そしてその先、目指すはその場に身をゆだね、
何も閉ざすことなく感覚を開く作業である。
踊りとは肉体の外に散らばっているものを感覚が集め
肉体の動きに変換していくように思う。
絵も音楽も言葉も会話も表現はすべてそうだと思う。
6畳の部屋で裸電球の下、表現をする場合と
広大な原野で表現をする場合は明らかに同じものは出ない。
それはとても自然であり、すばらしい事なのだ。
感覚アンテナが劣化しないように注意が必要であるが・・
それは芸術家のみならず、誰しも当てはまること
とにかく精神部分と肉体部分が共存している身体にとって
バランスは大切であり、目に見えない精神部分を認識し
身体にとってシンプルで自然な状態でいることは大切である。
とはいっても物質的価値が優先している現実、
精神と肉体のバランス舵取りが、容易ではないのもわかる・・
もちろん自分自身特別な人間でもないし、
精神と肉体そしてそれらの理想との葛藤もある。
植物のように、今を淡々と生きる姿、
動物のようにただ懸命に生きる姿はとても美しい・・
素晴らしい。
一息・・
話は最初へ戻り、病院の待合室でのこと。
隣に座っている体格のよいおばさん(好意を持っての名称)
が話しかけてきた。
「私はひざが悪くて、先生には痩せろと言われてるけど・・」
「そうなんですか。」
「運動は嫌いだから、サプリメントでがんばっているのよ。」
「やせます・・?」
「良いのは一通り買って飲んでるわ。
年金ほとんどつぎ込んで毎月7万よ。」
「・・・。」
「高いのよ。でも何が効いてるのかわからないから、
どれも止められなくて、大変。」
「・・。」
「この後ステーキ食べるのよ、医者に来る前は太らないように
我慢してるけど、やっぱりだめねぇ、ははは。」
これは驚いた。
とにかく突っ込みどころが多く
気の利いた言葉はかけられなかった・・
しかしこういうおばさんが、どうも嫌いになれない自分である。
今回はこの辺で・・
どうやら疲労で筋肉が張っているとの事
普段は怪我も無く、今の所至って健康だが
身体は確実に劣化する・・
年齢に伴い身体はますますいたわらないといけないなあ
と思いながらレントゲン写真にうつる自分の骸骨を眺める
身体は神秘に包まれている。
・・私達の身体は目に見える「肉体部分」と、
見えない思考や意思、感情などの「精神部分」で構成されている。
そこで人間の行動には、
肉体への知覚(感覚)の刺激が精神部分に働きかけるか
逆に精神部分から肉体に働きかけ行動を起こすといった
精神と肉体間のやりとりがせっせと日々行われるのである。
つまりは、見える部分と見えない部分が噛み合って初めて、
身体にとって自然な状態ということになる。
踊りなら、心地よければ心地よく踊り、心地悪ければ心地悪く踊るのである
日常であっても、つらいのに楽しいふりをする事はきつい
単純に我が内に正直に生きることである。
しかしながら、明らかに精神と肉体が噛み合っていない振る舞いは
いたるところ見受けられる
表向きがよければ中身は問題にしない社会の傾向はまずい・・
とうぜん不自然は身体に無理があり、壊す原因でもある。
以前、CM制作会社に頼まれ、企業へのプレゼン映像用に
振付のアイデアを求められた時の話。
新商品の強い守秘義務のため、食品ということ意外、商品の名前も
何も詳細を教えてもらえず振付を頼まれたことがある。
それは大変であった。売り出す商品があって動きのイメージができる。
商品を知らずに形をつくることは不自然で、なにより芸術性にかける。
(もちろん、たまたま先方にそうなる事情があった事で
やるからにはもちろん尽力に従ったことは付け加える。)
・・・・・
人前で肉体をさらし踊りを踊ることは、
精神のさらしである。
魂の叫びである。
目に見える部分だけなんて、おさまる事は自身にとってありえない。
そしてその先、目指すはその場に身をゆだね、
何も閉ざすことなく感覚を開く作業である。
踊りとは肉体の外に散らばっているものを感覚が集め
肉体の動きに変換していくように思う。
絵も音楽も言葉も会話も表現はすべてそうだと思う。
6畳の部屋で裸電球の下、表現をする場合と
広大な原野で表現をする場合は明らかに同じものは出ない。
それはとても自然であり、すばらしい事なのだ。
感覚アンテナが劣化しないように注意が必要であるが・・
それは芸術家のみならず、誰しも当てはまること
とにかく精神部分と肉体部分が共存している身体にとって
バランスは大切であり、目に見えない精神部分を認識し
身体にとってシンプルで自然な状態でいることは大切である。
とはいっても物質的価値が優先している現実、
精神と肉体のバランス舵取りが、容易ではないのもわかる・・
もちろん自分自身特別な人間でもないし、
精神と肉体そしてそれらの理想との葛藤もある。
植物のように、今を淡々と生きる姿、
動物のようにただ懸命に生きる姿はとても美しい・・
素晴らしい。
一息・・
話は最初へ戻り、病院の待合室でのこと。
隣に座っている体格のよいおばさん(好意を持っての名称)
が話しかけてきた。
「私はひざが悪くて、先生には痩せろと言われてるけど・・」
「そうなんですか。」
「運動は嫌いだから、サプリメントでがんばっているのよ。」
「やせます・・?」
「良いのは一通り買って飲んでるわ。
年金ほとんどつぎ込んで毎月7万よ。」
「・・・。」
「高いのよ。でも何が効いてるのかわからないから、
どれも止められなくて、大変。」
「・・。」
「この後ステーキ食べるのよ、医者に来る前は太らないように
我慢してるけど、やっぱりだめねぇ、ははは。」
これは驚いた。
とにかく突っ込みどころが多く
気の利いた言葉はかけられなかった・・
しかしこういうおばさんが、どうも嫌いになれない自分である。
今回はこの辺で・・
2009年10月27日火曜日
食するひと
「アオキさんは、ベジタリアンですよね?」と
人に言われる事がある。
傍から見たイメージだそうだ。
普段は確かにベジタリアン生活に限りなく近い
家で野菜を育て、野菜中心の食事である。
野菜を育て始めたのは、
食費を押さえようと思ったのがきっかけであり、
肉の値段も高く、腹が重くなり、そうなると眠くなる・・
カラダが軽い方が踊りやすい。
と、だんだんと食べることが減った。
もちろん機会があれば食べる。
「いのちの食べ方」という映画がある。
監督はオーストリア出身のニコラウス・ゲイハルター氏
この映画は、牛、豚、にわとりなどの家畜が肉になる過程
又、野菜や果物の生産過程などがナレーションもなく淡々と
映し出される内容である。
ちなみにこちらの映画のホームページでは
日本は食料自給率が低いわりには
世界で最も残飯を出している国でもあります。
金額に換算すると、11兆1000億円もの量になります。
・・・
等、食に関する問題点が掲載されている
映画は自分たちが口にしている食物の生産過程が
よく見える内容であり
家畜の処理過程は率直に言えば「残酷」に感じた。
しかし「残酷だと思うのなら肉食を止めたら良い」という思考では無い。
アラスカやカナダ、グリーンランドの極北で生活する人々にとっては
肉は生きるために必需であり、アザラシや白熊を何日もかけて狩る。
その地での圧倒的な生活を目の前にしたときに、
おそらく食の定義が明確になるように思える
「残酷」に感じるのは日本人の目線の自分である。
人間は動物であり、生まれたときに母乳を体内に取り入れる。
そこで「自分は何を食べて生きるのか」という情報を
母による体内成分より教えてもらい準備をするように思える。
民族や人種によって食文化は違いがあり
それぞれの気候や土地、環境で適した食生活になる。
人間の食はそれぞれ違って当然である
我々は生きるために食べ物を食べるのが、自然だが
なんでも手に入る豊かな暮らしでは、嗜好に走りすぎるのも当然であり
それぞれカラダにとって本当に必要なものが何か・・
感覚はぼやけてしまっている。
そこが、残飯大国と言う良からぬナンバーワンに
なってしまった姿なのだろう。
ベジタリアンだろうが、なかろうかに焦点を当てるのではなく
一番望ましいのは食べる分を自分の手で(育成し、刈り)狩り
食すことなのかも知れない
しかし家畜を肉にする役割の人達がいて、
そのほかの人達は製品になったものを購入する
その世界大半で当たり前となっている分業システムは
今更どうしようもない訳である。
スーパーが無くなり「来年より自分の食べるものは自分でどうぞ!」
となれば、皆戸惑いは必至・・
外食産業も無くなれば、肉を求めてより自然の多い地方へ
分散するのか、ライフスタイルを変えずに
お金で何とかしようとするのか・・
しかし既に挙げた極北の人々は現にそれに近い生活であり
食べ物を無駄にせず、祈りをささげ食すのである。
アラスカで暮らし、アラスカの写真を撮り続けた、
星野道夫氏の著「旅をする木」では
狩猟民族に生命体の本質を見出した記述がある。
一文を
動物達に対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、
いつか又戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。
つまりこの世の掟である無言の悲しみに、
もし私たちが耳をすますことができなければ、
たとえ一生野山をあるきまわろうとも、机の上で考え続けても、
人間と自然との関わりを本当に理解することは
できないのではないだろうか。
人はその土地に生きる他者の生命を奪い、
その血を自分の中にとり入れることで、
より深く大地と連なることができる。
そしてその行為を止めたとき、人の心は
その自然から本質的には離れてゆくのかも知れない。
・・・・・・・・・
食事の前に手を合わせ「いただきます」と頭を下げる
日本人の作法がある。
神道ではすべてのものに神が宿るとされている。
古人は物をとても大切に扱ってきた・・
残飯大国ナンバーワンから脱却できる感覚は
本当は日本人の心の奥に潜んでいるのである。
いのちの食べ方の映画に戻るのだが
中に果物や野菜の生産シーンも出てきた。
室内の照明で野菜を育て、
虫の付かない美しい野菜が育成されて出荷され
空からセスナ機で植物(野菜か果物)に農薬をかけていた。
かなり大量だった。
当然美しい野菜は需要があるのだろう。
今回はこの辺で
「いのちの食べ方」映画HP
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
人に言われる事がある。
傍から見たイメージだそうだ。
普段は確かにベジタリアン生活に限りなく近い
家で野菜を育て、野菜中心の食事である。
野菜を育て始めたのは、
食費を押さえようと思ったのがきっかけであり、
肉の値段も高く、腹が重くなり、そうなると眠くなる・・
カラダが軽い方が踊りやすい。
と、だんだんと食べることが減った。
もちろん機会があれば食べる。
「いのちの食べ方」という映画がある。
監督はオーストリア出身のニコラウス・ゲイハルター氏
この映画は、牛、豚、にわとりなどの家畜が肉になる過程
又、野菜や果物の生産過程などがナレーションもなく淡々と
映し出される内容である。
ちなみにこちらの映画のホームページでは
日本は食料自給率が低いわりには
世界で最も残飯を出している国でもあります。
金額に換算すると、11兆1000億円もの量になります。
・・・
等、食に関する問題点が掲載されている
映画は自分たちが口にしている食物の生産過程が
よく見える内容であり
家畜の処理過程は率直に言えば「残酷」に感じた。
しかし「残酷だと思うのなら肉食を止めたら良い」という思考では無い。
アラスカやカナダ、グリーンランドの極北で生活する人々にとっては
肉は生きるために必需であり、アザラシや白熊を何日もかけて狩る。
その地での圧倒的な生活を目の前にしたときに、
おそらく食の定義が明確になるように思える
「残酷」に感じるのは日本人の目線の自分である。
人間は動物であり、生まれたときに母乳を体内に取り入れる。
そこで「自分は何を食べて生きるのか」という情報を
母による体内成分より教えてもらい準備をするように思える。
民族や人種によって食文化は違いがあり
それぞれの気候や土地、環境で適した食生活になる。
人間の食はそれぞれ違って当然である
我々は生きるために食べ物を食べるのが、自然だが
なんでも手に入る豊かな暮らしでは、嗜好に走りすぎるのも当然であり
それぞれカラダにとって本当に必要なものが何か・・
感覚はぼやけてしまっている。
そこが、残飯大国と言う良からぬナンバーワンに
なってしまった姿なのだろう。
ベジタリアンだろうが、なかろうかに焦点を当てるのではなく
一番望ましいのは食べる分を自分の手で(育成し、刈り)狩り
食すことなのかも知れない
しかし家畜を肉にする役割の人達がいて、
そのほかの人達は製品になったものを購入する
その世界大半で当たり前となっている分業システムは
今更どうしようもない訳である。
スーパーが無くなり「来年より自分の食べるものは自分でどうぞ!」
となれば、皆戸惑いは必至・・
外食産業も無くなれば、肉を求めてより自然の多い地方へ
分散するのか、ライフスタイルを変えずに
お金で何とかしようとするのか・・
しかし既に挙げた極北の人々は現にそれに近い生活であり
食べ物を無駄にせず、祈りをささげ食すのである。
アラスカで暮らし、アラスカの写真を撮り続けた、
星野道夫氏の著「旅をする木」では
狩猟民族に生命体の本質を見出した記述がある。
一文を
動物達に対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、
いつか又戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。
つまりこの世の掟である無言の悲しみに、
もし私たちが耳をすますことができなければ、
たとえ一生野山をあるきまわろうとも、机の上で考え続けても、
人間と自然との関わりを本当に理解することは
できないのではないだろうか。
人はその土地に生きる他者の生命を奪い、
その血を自分の中にとり入れることで、
より深く大地と連なることができる。
そしてその行為を止めたとき、人の心は
その自然から本質的には離れてゆくのかも知れない。
・・・・・・・・・
食事の前に手を合わせ「いただきます」と頭を下げる
日本人の作法がある。
神道ではすべてのものに神が宿るとされている。
古人は物をとても大切に扱ってきた・・
残飯大国ナンバーワンから脱却できる感覚は
本当は日本人の心の奥に潜んでいるのである。
いのちの食べ方の映画に戻るのだが
中に果物や野菜の生産シーンも出てきた。
室内の照明で野菜を育て、
虫の付かない美しい野菜が育成されて出荷され
空からセスナ機で植物(野菜か果物)に農薬をかけていた。
かなり大量だった。
当然美しい野菜は需要があるのだろう。
今回はこの辺で
「いのちの食べ方」映画HP
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
2009年10月26日月曜日
路上ダンス「母の時間」
天候が不安でしたが、無事開催することができました。
条件の悪い中、たくさんの方に来て頂けたことにとても感謝しています。
ありがとうございました。
パンフレットを100部以上用意していたのですが、
こちらのミスで配ることができずに、肩を落としています。
文章を見て頂ければ、特に初めての方には、もう少し
ソケリッサ!へ近づきやすかった事と思うのですが・・
私達の表現へ足を運んでくれること、又拍手いただけることを
メンバー共々、心より感謝いたします。
又次回へ向けて精進いたします。
ありがとうございました。
条件の悪い中、たくさんの方に来て頂けたことにとても感謝しています。
ありがとうございました。
パンフレットを100部以上用意していたのですが、
こちらのミスで配ることができずに、肩を落としています。
文章を見て頂ければ、特に初めての方には、もう少し
ソケリッサ!へ近づきやすかった事と思うのですが・・
私達の表現へ足を運んでくれること、又拍手いただけることを
メンバー共々、心より感謝いたします。
又次回へ向けて精進いたします。
ありがとうございました。
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